大江の源へ

尾張平野の中央を南北に流れ、地域の皆さんに親しまれている大江川。その水がどこから来ているのか、皆さんはご承知だと思います。
犬山城の麓を流れる木曽川に緩やかな弧を描いて架かる犬山頭首工(別名「ライン大橋」)から取水されている「宮田用水」が、その源です。
しかし、戦国時代末期に宮田用水を通じて大江川に水が流れ始めてから、1962年に犬山頭首工が完成するまでには354年の月日が必要だったことはご存じでしょうか。


まずは極楽寺公園へ

一宮市、木曽川沿いの大野極楽寺公園を歩くと、グランドの隣りに「大野杁跡」と刻まれた石碑が見つ かります。ここが1608年に作られた宮田用水の最初の杁(「いり」取入れ口のこと)のあった場所です。

戦国時代までの尾張平野では、扇状地を幾筋も流れる木曽川の派川を用水源とした農業が行われていました。その代表的なものが大江川であり、平安時代の国司大江匡衡が1001年にかんがい用の水路として整備し、利用されていたと伝えられています。

しかし、関ヶ原の戦いを終えた徳川家康が木曽川左岸の犬山から河口に至る延長約50kmにも及ぶ長大堤防「御囲堤」を築いたことにより、これら水路の水源が絶たれてしまいました。そのため、大江川に木曽川の水を導くべく御囲堤の一部に用水の取入れ口として作った樋門が「大野杁」だったのです。

なお、御囲堤を作った目的は、尾張平野を洪水から守ること以外にも、大阪方面に依然として勢力を持つ豊臣方への防御や木曽の木材を川を使って安全に運び入れるためなどとも言われており、どれも一理あるようです。


宮田用水の名の由来

しかし、木曽川の河道の変化や土砂の堆積によって大野地点では次第に取水ができなくなり、1628年、江南市宮田に新しい杁を建設しました。これが「宮田西元杁」で、宮田用水という名前の由来にもなっています。

宮田西元杁は今でも現役の水路として活躍しており、県道182号線の宮田口バス停付近に「宮田西閘門」という銘板が付いた構造物を見つけることができます。

その後、西元杁だけでは十分な水量が確保できなくなり、1642年になって80mほど上流に「宮田東元杁」を追加しました。通水開始の際には、現地を訪れた尾張藩主徳川義直がいたく感激し、「この国の民の乳房や二つ杁」の句を詠んだという逸話が残っています。この句から、永くこの地域は「民乳」という地名で呼ばれ、平成のはじめ頃まで親しまれていました。

東元杁は、今では水路跡だけが残り、樋門の施設は撤去されていますが、宮田用水土地改良区の中央管理所に、巻き上げ機の一部と銘板を見ることができます。

東西元杁の設置によって水量を確保し、杁や流入路を修繕管理することにより、その後270年にわたり取水を続けることができました。しかし、次第に杁前が堆砂したり、木曽川の澪筋が変化して岐阜県側の流路に移行したことなどによって取水が困難となり、1912年には宮田元杁から6.1km上流の江南市鹿ノ子島に新しい杁を設置することになりました。


鹿ノ子から草井、さらに小淵へ

古地図によると、木曽川中州の北側に「鹿ノ子杁」を建設し、岐阜県側を流れる北派川から愛知県側の宮田元杁地点まで導水していたようです。

この後も、洪水時に絶えず起こる堆砂によって取水ができなくなり、また、南派川への流入量が減少したことにより、木曽川の流れが南北に分かれる地点より上流に取水地点を移設せざるをず、1930年には1.2km上流の江南市草井渡船場下に建設した新しい取水樋門に移動しました。これが「草井杁」です。


当地には、1946年10月23日に昭和天皇が行幸され、ご視察の地であるすいとぴあ江南の東側には「御巡幸之跡」の碑が建ち、今も木曽川を臨んでいます。

その後も、上流にできた発電ダムの影響で河床が低下し、かんがい期には木曽川本川に仮堤を設け、ようやく用水を取り入れていました。しかし、仮堤は洪水の都度流出し円滑に取水することは至難でした。
これを解決するため、取入れ口をさらに2.3km上流に求め、扶桑町小淵での工事が1937年に開始されました。戦争や度重なる水害などによって大幅に遅れはしましたが1951年に「小淵杁」が完成したのです。
小淵杁のあった場所には吉田茂元首相の揮毫による「恵澤萬古長」の碑が建てられています。また少し下流には、取水施設の変遷を説明した宮田用水土地改良区の看板も設置されていますので是非ご覧下さい。


安定的な取水を実現した犬山頭首工

しかし、苦難はこれで終わることはなく、上流の発電ダム開発によって水の流れがせき止められたり放流されたりすることにより木曽川の水位が毎日40〜50cmも変化し、農業用水の取水に甚だしい支障をきたすようになってきました。

このため、宮田用水だけでなく周辺の木津用水や羽島用水でも、取水口や導水路の維持・補修のために土地改良区の皆さんによる莫大な労力と出費が必要だったのです。

こうした事態を解決し恒久的な農業用水を確保するため、近代的な堰を建設し三用水の取入れ口を統合することになりました。

1962年、犬山城の麓に「犬山頭首工」が完成し、愛知県側にある管理所には当時の佐藤栄作首相の手による「蘇水濃尾潤」の碑が設置されています。

大江川の源は、1608年にできた大野杁から354年の時を経て、ようやく安住の地を見つけることができたのです。以来、木曽川の水が濃尾平野の田畑を潤しながら市内を流れる川に流れてきています。

平安時代から千年以上続くと言われる大江川の流れが、今後とも地域の皆さんの憩いの場となり目を楽しませてくれるよう、みんなで守っていきたいですね。


文・写真
東海農政局 
新濃尾農地防災事業所
所長 国安法夫

2014/07/25掲載